少数派の悲哀
最近、大人の発達障害が取り上げられることが多くなり、ネットのニュースなどでも関連記事を見かけることが増えた。コメントがついている場合にはコメントを読むことがある。
そういうとき、仕事に関するもので多いものに「発達障害者は迷惑。努力しているならまだしも、自覚もなくて周囲が疲れる」という類のものがある。
あるいは、結婚生活であれば「アスペの旦那(妻)最悪。相手の気持ち考えない。疲れて鬱になる」というもの。
親子であれば「うちの母毒親。あれは発達障害に違いない」というもの。
すみません。迷惑ですか。努力しているつもりですが足りなかったですね。頑張ります。周囲に合わせるように頑張ります。本当にすみません。
いわば、こう思うことが多かった。
だけど、本当にそう?
そもそもこういう記事のコメントに書いている人の言う「周囲の発達障害者」はただのその人の思い込みであることが多い。本人が診断済みかどうかなんて知らない。ただ、その人にとって「変な人/合わない人」を発達障害と勝手に言っているだけじゃないか。相手を理解できないと発達障害というレッテルを貼ってるだけじゃないか。定型に変な人はいないというのか。努力しない人はいないと言うのか。定型は人に迷惑をかけないのか。自分が理解できないからってそれが発達障害ってどういう根拠なんだ。
それに、努力しろって何様? 定型って、そんなに偉いの? 定型は発達障害者に合わせるために努力してる? なんでこっちばっかりそっちに合わせることを当然のように要求するの?
そもそも定型だって努力してない人なんてたくさんいるでしょ? どうして発達障害者の側だけが努力してないと救いようがないみたいに言われないといけないの?
定型は、発達障害者が気に入らなければつまはじきにすることが出来る。「あいつ変だよね」と言って自分たちの輪に入れず、つきあわないことが出来る。
でも発達障害者にはそれが出来ない。周囲は定型ばかり。合わせるしかない。こっちの方がわけのわからない定型とかいうのに囲まれて逃げ場もなくてよっぽどストレスでよっぽど鬱になるよ。
「みんな違ってみんないい」なんて、嘘っぱちだ。
違っている人は、標準的な人に合わせなくては「いい」なんてみなされない。
あわせられなかったら、駄目な奴だ。
時々、無自覚に多数派の論理に胡坐をかく定型発達者が憎くてたまらなくなる。
そういうとき、仕事に関するもので多いものに「発達障害者は迷惑。努力しているならまだしも、自覚もなくて周囲が疲れる」という類のものがある。
あるいは、結婚生活であれば「アスペの旦那(妻)最悪。相手の気持ち考えない。疲れて鬱になる」というもの。
親子であれば「うちの母毒親。あれは発達障害に違いない」というもの。
すみません。迷惑ですか。努力しているつもりですが足りなかったですね。頑張ります。周囲に合わせるように頑張ります。本当にすみません。
いわば、こう思うことが多かった。
だけど、本当にそう?
そもそもこういう記事のコメントに書いている人の言う「周囲の発達障害者」はただのその人の思い込みであることが多い。本人が診断済みかどうかなんて知らない。ただ、その人にとって「変な人/合わない人」を発達障害と勝手に言っているだけじゃないか。相手を理解できないと発達障害というレッテルを貼ってるだけじゃないか。定型に変な人はいないというのか。努力しない人はいないと言うのか。定型は人に迷惑をかけないのか。自分が理解できないからってそれが発達障害ってどういう根拠なんだ。
それに、努力しろって何様? 定型って、そんなに偉いの? 定型は発達障害者に合わせるために努力してる? なんでこっちばっかりそっちに合わせることを当然のように要求するの?
そもそも定型だって努力してない人なんてたくさんいるでしょ? どうして発達障害者の側だけが努力してないと救いようがないみたいに言われないといけないの?
定型は、発達障害者が気に入らなければつまはじきにすることが出来る。「あいつ変だよね」と言って自分たちの輪に入れず、つきあわないことが出来る。
でも発達障害者にはそれが出来ない。周囲は定型ばかり。合わせるしかない。こっちの方がわけのわからない定型とかいうのに囲まれて逃げ場もなくてよっぽどストレスでよっぽど鬱になるよ。
「みんな違ってみんないい」なんて、嘘っぱちだ。
違っている人は、標準的な人に合わせなくては「いい」なんてみなされない。
あわせられなかったら、駄目な奴だ。
時々、無自覚に多数派の論理に胡坐をかく定型発達者が憎くてたまらなくなる。
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