生活の中の難易度

駅で電車を待っていたら、つんつんと遠慮がちに肩をつつかれた。
振り返ると、外国人らしき二人連れが無言で手招きし、路線図を指す。〇〇駅という駅名を指して、ホームと電光掲示板を指すのだが、無言だ。
「〇〇駅に行きたいんですか」と英語で尋ねると、「そうです!」と急に声が出た。「〇〇駅に行きたいのですが、このホームに来る電車に乗れば着きますか?」と聞かれ、「このホームに来る電車はどれでも〇〇駅行きますよ。次の電車に乗れば大丈夫です」と教えてあげた。
「ありがとうございます!」と二人で声をそろえてお礼を言ってくれて、その二人連れはベンチの方へと歩いて行った。

ふと思ったのが、この外国人は「英語で話しかけると日本人が逃げてしまう」という経験を重ねてきたのではないだろうか。
それで無言のジェスチャー作戦。
実際に英語で話しかけられると逃げてしまう人というのはいる。知っているし目撃したこともある。
英語が出来る出来ないじゃなくて、別に日本語ででも教えてあげればいいのに。というか、逃げることはないのに。

2,3分後に電車が来た。
乗ろうと思って外国人を思い出し、「これに乗れば大丈夫ですよ」って指さしてにっこりうなずいてあげようとベンチの方を見た。
え、あれ。どの人だっけ。外国人ぽい人は一人いるけど、この人?
いや、考えてみれば電車が来ているのだからベンチに座っているはずがないか。もう電車の前かな?と思いベンチ近くの電車の前の人を見てみたけれど、やっぱり全く分からない。
ラッシュではなく、両手の指で数えられる程度だった。
それでも、2,3分後に会話まで交わした外国人二人連れという覚えやすい人がもう分からない。

おそらく、世の中の多くの人にとっては「とっさの英会話」の方が「2,3分前に話した人を見分ける」より難しいのではないだろうか。
でも私には全く逆だ。

私は仕事でも専門性の高いことをしているが、お茶出しは出来ない。
お茶出しをバカにしているわけではなく、出来ないのだ。難しすぎて。

そういうことを考えると、何が難しいか、何に困難を感じるかは人それぞれだよな、と思う。
世の中で簡単と思われていること、難しいと思われていることがみんな同じに感じるわけではない。

なんでこんなことを書いているかというと、障害者手帳や障害年金の「生活の難易度」では、社会生活の方が日常生活より難しいと定義されているというか、会社員が出来ていれば日常生活は出来るはず、という前提を感じるからだ。
私にとっては仕事よりも日常生活の方がよっぽど難しいのに。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

あゆみ

Author:あゆみ
大人の(成人)発達障害です。「発達障害のわたしのこころの声」(学研)の著者です。
本には書けなかったこと、本を出してからの日々を綴っています。
会社員と一人暮らしが出来ていているのに、発達障害は確かなようです(診断済み)。



発達障害のわたしのこころの声 (ヒューマンケアブックス)

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
最新コメント
広告


にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 成人発達障害へ
にほんブログ村
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR