依存が嫌なわけ

私は人に依存するのが嫌いで、子どもの頃親に生活を依存していたのはともかくとして、大人になってから依存したことはないと思う。親にも、結婚していた当時も、友人たちにも。
それがこの数年、お医者さんと臨床心理士には依存している気がする。というか、している。
何かあったときに頼る先がある…というのは、救いになるはずだ。実際、お医者さんに「本当にダメなときは電話してきてください」と言ってもらって、最後のセーフティネットみたいにその言葉を握りしめてウツ状態を我慢していることなんかもある。
本当に苦しかったときに本来の取り決め外の無理やりカウンセリングを申し込んで臨床心理士に助けてもらったこともある。

でも、それなのに、すごく嫌だ。
お医者さんや臨床心理士が嫌なわけではなく、依存が嫌だ。

なんで?と思って考えてみた。

もしかして、私にも見捨てられ不安があるのだろうか?
依存してしまってから見捨てられたら、堪えるだろう。それが怖いような気がする。
臨床心理士の勤務先が一度組織変更というか、ちょっと状況が変わるという話を聞いたとき、「もうこの臨床心理士にカウンセリングしてもらえなくなったらどうしよう」と思うと不安になり、ちょうどしんどい時期だったこともあいまって、本当に調子を崩した。
お医者さんにも時々、「先生、このクリニックやめませんよね?」と尋ねたくなることがある。(ちなみに尋ねない理由は、もしやめると言われた場合のショックが怖いからだ。)

お医者さんは私より年上なので、お医者さんに定年はないとはいえ、普通に考えれば先生が引退するほうが私が精神科医を必要としなくなるより先だろう。単純に寿命で考えても。
臨床心理士は同年代だけれど、臨床心理士というのはなんとなくお医者さんよりもふいっとやめてしまいそうな不安がある。

そしてお医者さんや臨床心理士というのはあくまで職業上の関係だから・・・
友達と違って、一時的に縁遠くなってもまた復活するとかはなさそうだ。職業的に引退したらもうそれっきりだろう。

こんなことを考えると、不安で心配で怖くてたまらなくなる。
まったくもう、受診やカウンセリングで安心させてもらっているんだかかえってそのたびに不安になるんだか、プラマイで考えたらどっちが多いかわかりゃしない。

だから依存は嫌なんだ。
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残りの人生でやりたいこと

発達障害を抱えながら、転職を繰り返したりパワハラで適応障害起こしたりしてはいるけれど、それでも会社員を務めてこられたことはありがたいことだと思っている。

でも、会社員が自分の天職だとは思えない。転職という言葉がオーバーなら、やりたいことだと思えないと言えばいいのか。自分がやっていることに価値が見出しにくいというのか。
得意分野で働けていることはありがたい。評価されれば嬉しい。強い分野には自信が持てる。
これ以上、望むのは贅沢か?

だけど、人生の中で長い時間を費やす仕事。どうせなら、自分がやりたいことをやりたい。どうせ責任を負う人もいないのだから、自分の食い扶持さえ稼げればいいのだし。

今までも時折そんなことを思いながら、でもその「自分がやりたいこと」が見つからなかった。
(宝くじ当ててごろ寝三昧とかの現実味のない空想は別)

いろいろ考えた中で、私は自分の発達障害を意味のあるものにしたいと思う。自分がこんなで、こんなコンプレックスをかかえて、こんな苦労をしてきて、こんな悩みを持ってきたことを、何かに生かせたら、自分の人生に意味を見出せる気がする。

発達障害ビジネス…(儲けまではともかくとして、ボランティアでは続けられないので「ビジネス」にはしたい)
自分の経験を生かすとなると、医療とか療育の分野は無理だろう。対象も重度とか知的障害を伴うでは自分の経験は生かせないだろう。
そう考えると、知的な遅れを伴わない子どもの学習支援か、大人の発達障害の就労支援か。
そんなあたりなら現実味があるだろうか。

発達障害の子の学習塾。
発達障害専門の人材紹介(転職)エージェント。
こういうものならなんとなくイメージが湧く。
あるいはその中間ぐらいで高校生前後の子の職場見学体験とか、大学生や専門学校生のインターンシップ紹介とか。

今すぐどうこうというのは無理だろうけれど、こういうことを考えるのは楽しい。
そして、考えて楽しいことを仕事に出来たら、それはいざとなれば楽しいだけではすまないにしても、やりがいを感じられるのではないかと思う。

「孤独の価値」


孤独の価値

※これで孤独って言われてもねえ……。


「孤独の価値」という本を読んでみた。

私は昔から一人でいるのが好きだったし、今でも好きだし、一人でいると落ち着くし、自由だし、楽だ。

とは思うのだけれど、でもやっぱりそれでも自分を寂しい人間なのだろうな、と思う。
一人で、孤独だから。

それで、たまたま目についた「孤独の価値」という本を買ってみた。昔好きだった作家さんだったので、ちょっとワクワクしながら読み始めた。

うーん。
うーん。うーん。
まあね、趣旨としてはいいんだ。孤独は寂しいものではない、否定的にとらえる必要はない、創造の源だし、人間らしく生きるために必要なものだよ、と言うその方向性は間違っていない。
ただ……。

この人、家族と同居している。長年連れ添った奥さんと、子どもがいる。犬も飼っている。庭のある住宅に住み、車を持ち、経済的に不安もなく、まだ50代で、仕事は1日1時間と決めているそうだ。友人が訪ねてくれば歓迎するという。
これを孤独と言うか?

普通、孤独といったら家族とか親しい人がいないことを言わないか。更に言えば経済的に恵まれていないとか身心にトラブルがあるとか高齢とか、何かそういう自由が利かない要素がないか。寂しいけど思うようにならない、ということを孤独と言うのではないか。
孤独でない人が自分を孤独だといって孤独論をぶっているようにしか思えなかった。

英語を習い始めた

今の仕事では毎日英語を使っている。そして、週末も祝日も仕事をしているので、つまり英語を使わない日などない。
海外赴任していたときより使っているかもしれない。

で、私の英語は「通じる」のだ。でも、やっぱり下手くそで不自然だ。
だから、そこからもう一歩先に行きたいと思って、英語の勉強をすることにした。
いわゆる英会話ではなく、ビジネスマン向けの講座だ。TOEICでいえば800点以上が目安ってなってたかな。少なくとも初心者向けではない。

面白い~
大体、褒められる。
「模範解答」に私の英作文が使われることも多い。テストや課題にはいい点がつく。
えっへっへー。今更通勤電車で英文を暗記するのも苦にならない。だって、ほめられるんだもん。出来るんだもん。分かるんだもん。

……数学をやったときとのあまりの落差に、自分でも愕然とする。

やっぱり人間、得意なことをやってる方が楽しいよねえ。
もう習い事で無理をするのはやめようと思う。
(といっても、好きでもない運動をするためにジムには行こうと思っているのだけれど)

手帳用の写真を撮った

障害者手帳の申請には写真が必要だそうなので、写真を撮ってきた。
ちゃんとした写真屋さんで撮るような性質のものでもないので、ボックスのインスタント写真だ。
座席に座り、前の画面に映る自分をみて、髪ぐらい整えようと思った。
ところが、ブラシを持っていなかった。というか、ポーチを持っていなかった。
リップクリーム(色付き)ぐらい塗りなおすかと思ったのだけれど、そもそもポーチがないのだからこれも無理。
仕事帰り(休日出勤)だったのだけれど…仕事にポーチ持たずに行って、しかも帰りまで気づかないって、どれだけ私化粧に興味ないのよ。そりゃまあ普段から確かに何もしないけど、普通女性がポーチ持たずに外出しないだろう。

といってもそこはこだわらない私。適当にそのまま写真を撮った。
うーん、なんか人相悪いな。それになんか私、太った?
犯罪でも起こしたら、いかにも犯罪者顔みたいな感じ(?)で使われそうな写真になってしまった。
ま、いっか。障害者手帳の写真の写真写りが良くなくても、誰も気にしないだろう。

着々と準備を進めている。
今週中には申請に行きたい。
プロフィール

あゆみ

Author:あゆみ
大人の(成人)発達障害です。「発達障害のわたしのこころの声」(学研)の著者です。
本には書けなかったこと、本を出してからの日々を綴っています。
会社員と一人暮らしが出来ていているのに、発達障害は確かなようです(診断済み)。



発達障害のわたしのこころの声 (ヒューマンケアブックス)

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