つい、言っちゃうんですよ

カウンセリングでのことだ。
話していた際に、通院先のメンタルクリニックの先生の話が出た。
「そういえばヒドイんですよ。私、先生にこんな冷たいこと言われたんです」と愚痴ると、カウンセラーは「それ、そういう意味ですか?」と言う。それで「それはそうでしょう」と言うと「そうではないと思いますよ」と言うので、「じゃあどういう意味ですか」と尋ねると、「うーん、つまりですね、そうですね、それはこういう意味で……なんか言葉で説明するの難しいですね。まあいうなればこういう意味です。とにかく、それは先生はそういう冷たい意味ではないと思いますよ」と言うのだ。

なんか納得がいかず、「私(のコミュニケーション障害)を知らない人ならともかく、発達障害の専門の先生で、私も4年診ていただいてます。本当にそういう意味だったなら、私にはそういう言い方では通じないと分かるはずです。それに〇〇さん(カウンセラー)も、説明するのが難しいって、そういう説明には慣れていらっしゃるはずですよね」とやや憤然として言った。

するとカウンセラーは「そうなんですけど。でもあゆみさんと話していると、普通に話しているように話が進むことも多いので、つい普通の人相手の表現が出ちゃうんです。言ってから、ああしまった、これではあゆみさんに通じてないな、と言い直していることはあるんですが」と言うのだ。
実はこれ、その当のメンタルクリニックの先生にも言われたことがある。私が自分のコミュニケーションに障害と言われるほどの問題があるとはどうしても納得できず、「先生は私とお話になるときに、私の発達障害を意識して表現を選ばれてるんですか」と、「そんなことはないですよ、普通に会話してますよ」という答えを予期して尋ねたところ、「そうですね、時々言ってしまってからあなたの反応を見て、あゆみさんにはこの言い方では通じなかったな、と表現を修正していることはあります」と言われたのだ。

数学や体育に凸凹があるように、私のコミュニケーションにも凸凹があるのだろうか。
全般に低いのなら、「普通に話してしまう」ことはないだろう。
そうではなく、普通に話が通じるように見える部分も多いから、それでつい普通の話をしてしまって、それがたまたま私の凹の部分に当たってしまうと私は誤解してしまったり、相手が誤解してしまったりするのだろうか。
お医者さんやカウンセラーはいい。分かっているわけだし、そうやって様子を見て言い換えてくれているみたいだし、誤解があったとしても説明でお互い理解はできるだろう。
でも、日常で接するほとんどの人は私のコミュニケーション能力の障害を知らない。私の唐突な凹の部分には「なんだ、この人?」と思っていることも多いのかもしれない。
友達であれば、「ま、あゆみってこういう人だよね!」で済ませてくれるかもしれないが、社会生活では……。

それにしても「先生のセリフは冷たい意味ではなかったと思いますよ」というカウンセラーの説明でかえって落ち込んだ(理解できなかったことに)私って、なんだか悲観的だわ。
「冷たいこと言われたわけじゃなくて良かった!」とか思えればいいのに。
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普通の言い方

メンタルクリニックの先生に「婚約者とかなら家族同様(に診察予約を優先しても良い)」と言われて反論したという記事を書いたが、この前カウンセリングでその話をしてきた。

カウンセラーも友人の意見に賛成で、そうですねそういうときは「えー、先生、そんなこと…」と言って曖昧に笑う、と。

「それじゃイエスなのかノーなのかわからないですよね? 本当に婚約者の話だとでも思われたら誤解のもとですが」と言うと、「普通は言い方でわかりますよ」と言うのだ。
「普通は」ね。
なんでみんな「普通は」そんなことがわかるのかな。

そしてカウンセラーが言うには、「むしろあゆみさんみたいなことを言うと、言われた方が『そんなつもりじゃなかったのに』『そんな言い方しなくても』と思うことがあるかもしれません」だそうだ。
「そんな言い方しなくても」も確かによく言われる。それも、別に私はけんか腰とかではなくて、ごく当然に思ったことを言っただけでよく言われる。

「普通」の物の言い方って難しいんだなあ。

カウンセリングのトピック

この前カウンセリングに行ったときは、母との付き合い方について尋ねた。
私の母はなんというか、過干渉なのだ。
「心配だから」と私のためモードのときもあれば「ほかにメールしてくれる人いないし」(←そんなことはない!)と寂しさ前面モードのこともあるのだが、とにかく何のかんのと、私が何をしても何をしなくても「もっとああすれば」「それはこうしないと」「そんなのだめよ」と絶対に満足してくれない。
例えば、朝早く出勤しているときに「朝ご飯食べてるの」と聞かれ、「時間なくて。食べたり食べなかったりだね」と言えば「朝ごはんしっかり食べないとダメよ」と言う。ここで「大人の場合は、食べるのがいいという説と食べなくてもいいという説があるんだよ」などと言っても絶対に自分の価値観は変えない。次に聞かれたときに「うん、会社の近くまで行ってから食べてる」というと「朝から外食なんてダメよ」と言う。自宅で食べる時間が出来て「家で食べてるよ」と言っても「何を食べてるの」と聞かれ「パンとコーヒーぐらいだけど」と言うと、バランスが悪いと言う。「あ、フルーツは大体食べてる」と言えば今度は「フルーツは果糖が多いから気をつけなさい」

ああ。苦しい。こうやって一つぐらい書くと「どこの家でも」とか「母親なんてそんなもの」と言われそうだが、親しい友人たちには「あゆみの家の過干渉さはすごいよね……」と言われるので、やはりそうなんだと思う。とにかく一事が万事この調子だ。
スルーしようにも、メールに2日ぐらい返信しないと「心配するので返事ぐらいください」と催促がかかる。

カウンセラーに言うと「そういう人、意外と多いんですよ」と言った。そうらしい。こういう系統の本は最近多い。
「母に悪気がないのはわかるんです。今更母は変わらないでしょうから、受け流す方法を知りたいんです」と言ったのだけど、なかなか妙案が出てこない。
でも、「つい、悪いかなって思うので反応しちゃうんです」と言うと「優しいですね」と言われて意外だった。

うまく伝わるかわからないのだが、私は「母が望む方向に応えない」ことを自分が優しくないとは思っても、母が望む方向に応えようとすることを自分が優しいことだと思ったことがなかった。

優しくなくてもいいのかなあ。
そう思う反面、もう70も後半の母に、優しくしたいという思いもある。

カウンセリングは具体的な解決策をくれないことが多い。
「よくあることなんですよねえ」なんて言われているうちに事態が急展開し、カウンセリングどころではなくなることもある。離婚のときがそうだった。カウンセラーに「元夫がこうこうで、私としてはストレスがたまって、どうしたらいいんでしょう」なんて言っている間にあれよあれよと別居→離婚のスピード展開だった。
(どんなカウンセリングを受けるより、離婚して自由になった方がすっきりしたので、変にカウンセラーで我慢する方法を教わるより良かったのかもしれないが)
なので、カウンセリングは即役に立つとか実践的ではない部分もあるのだけれど。
(もちろん即役に立つ実践的な方法論を教えてもらうこともある)

でも、カウンセリングに行くとほっとする。
もう3年もほぼ毎月話をしている臨床心理士だが、私は彼女のプライベートを何一つ知らない。何一つ尋ねない。
一方的に愚痴って相談してアドバイスをもらって、時に泣いて、そういう一方通行の関係に罪悪感を持たなくて良い。
とても気が楽になる。

カウンセラーのアンガーマネジメント

最近、イライラしているみたいでつまらないことをカッとしてしまうことが多い、という相談をカウンセリングでしてきた。
もともと私は短気なところがあり、アンガーマネジメントはそれなりに試みている。でも、今はダメなのだ。
そう言うとカウンセラーにどんなアンガーマネジメントをしているか尋ねられたので、「一般的なことです。一呼吸おく、その場を離れる、飲み物を買いにいく、怒りを数値化してみる……これぐらいはやっているんですけど、うまくできません」と言った。
するとカウンセラーは「出来ることはやっているんですね。困りましたね」と言ってから、唐突に「フランクルの『夜と霧』って呼んだことあります?」と聞いてきた。
「もちろんあります」と答えると、「あれ、読んでみたらどうですか。あれを読むと、つまらないことで怒っているのがばかばかしくなります」と言う。
(「夜と霧」はアウシュビッツでホロコーストを生き延びたユダヤ人精神科医の回想録)

そ、そりゃまあ、そうかもしれないけど、それは極端というか・・・

「うーん、なんというか、それ。そうですね、私が今貧困に苦しんでいて生活保護でぎりぎりの生活をしていて、明日食べるものも心配というような生活をしているという相談をしたら、『ナイジェリアやルアンダの難民キャンプの人たちのことを思えば、今日食べるものがあるだけでもありがたい、明日のことを悩むなんて贅沢って思えるでしょ』と言われているのと同じような感じじゃないでしょうか。ちょっと極端ですし、現実味がありません」と言った。
(このカウンセラーとのつきあいは長く、言いたいことを言わせてもらっている)

意外なことに、これはそのカウンセラーの実体験なのだそうだ。
自分がすごくイライラして些細なことに怒りっぽくなっていた時期に、夜と霧を読み、「どんな環境でも人の心は自由だ」という文章に心打たれ、自分のいらつきがおさまったのだとか。

カウンセラーがそう言うと、なんか説得力がある。
それで、「じゃあ読んでみようかという気になりました……。でもあれ、重いんですよね」と言うと、「そうなんですよね。私も薦めながら言うのもなんですけど、今のあゆみさんに薦める本じゃないな、と……」と優柔不断なことを言う。
「そうですねえ。まあ、読めそうだったら読んでみます」ということにした。

この夜と霧の作者は自分は生き延びたが、奥さんをアウシュビッツで亡くしている。
「きっと、あの冷静な『夜と霧』では書けない思いはたくさんあったでしょうね」と私が言うと、カウンセラーは「そうですね。それでも、その中でフランクルが残したい、と思った内容があの本なんですよね」と言った。
うまく表現できないが、ああ、きっとそうなんだな、と思った。

あと、カウンセラーは「言葉で怒る前に、メールに書くとか、他の方法で発散することを考えるといいですよ」と言った。
おお、なるほど。と内心思った。「内心」と言うのは、「じゃあこのブログに書こうと思ったからだ(ブログを書いていることはカウンセラーには言っていない)。
当分、ここをアンガーマネジメントの場にさせてもらおう。

それから、もっと単純な方法として「深呼吸がいいですよ」と教えてもらった。ふむふむ。

それにしても、ストレスで怒りっぽくなっているという人にフランクルの夜と霧を薦めるより、普通は深呼吸を先に薦めると思うのだが。
それだけに、きっと自分も怒りっぽかった時期に夜と霧を読んだという話は本当なのだろうなと思った。

しねばいいという気持ちを持つこと

ある身近な人に言われたことにとても腹が立ち悲しくも悔しくもあり、その人のことを「しねばいい」と思った。
本人がしんでもいい。家族がしんで苦しむのでもいい。
他人に対してこんなことを、しかも煮えたぎるような憎悪の念と共に思ったのは、初めてのことだった。

その相手がしねばいいという気持ちは気持ちとして、ただ自分がそんなことを考えてしまってとらわれてしまうのをなんとかしたくて、カウンセリングで話をした。
だが、カウンセラーは「こういう状況でそう思ってしまうのは仕方がない部分もあります。世の中の多くの人は、たとえカウンセリングでもそこまで正直に言葉にはしないかもしれませんが、でもそう思ってしまうことは決して珍しいことではない、と思いますよ」と言うだけで、どうしたらいいのかについては「ごめんなさい、思いつきません」とのことだった。

数日後、女3人で飲みに行く機会があった。

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プロフィール

あゆみ

Author:あゆみ
大人の(成人)発達障害です。「発達障害のわたしのこころの声」(学研)の著者です。
本には書けなかったこと、本を出してからの日々を綴っています。
会社員と一人暮らしが出来ていているのに、発達障害は確かなようです(診断済み)。



発達障害のわたしのこころの声 (ヒューマンケアブックス)

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