感情の乏しさと記憶力の良さ

私はどうも感情の起伏に乏しいらしい。
確かに自分でも人と話していると、私って冷淡だなーとか感情が薄いなーとか思ったり、そもそも何が問題なの?と分からなかったりすることがある。
なので、たぶん私の生活というのは、普通に喜怒哀楽のある人(?)と比べて、淡々としたものだと思う。

反面、私は記憶力が良い。
言葉や出来事というだけではなく、その時の感情まで鮮明によみがえる。
ウン十年前の保育園時代の出来事でも思い出すと当時の感情そのままによみがえる。

思うのだけど、私の感情の平坦さは自己防衛反応なのではないだろうか。
激しい感情が風化せずにずっと維持されてしまうのでは、いちいち日々の出来事に感情を動かしていてはたまったものではない。
だから、なるべく感情を持たないように、潜在意識で調整しているのではないだろうか。
嬉しい記憶や楽しい気持ちだけ選んで残せれば一番なのだが。

こんなことを思うのも、私には「時が薬」という言葉が効かないからだ。
しんどい体験は、どれだけの時が経っても薄まらない。しんどいままだ。
こんな記憶力、いらなかったのになあ。
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普通になりたい病

このブログでも何度も書いているが、私は「普通になりたい」「普通でありたかった」という気持ちが非常に強い。強迫観念というか病的なほどだと思う。何が普通かも、普通の方が幸せかもも分からないのに。
私の結婚が失敗に終わった最大の理由も、そもそも結婚を決めた最大の理由が「普通でありたいから(普通の人は結婚するから)」だったからではないかと思っているほどだ。

そんな話を友人にすると「どうしてそんなに普通になりたいんですか」と訊かれ、予想外の質問に思わず考えた。
え? どうしてって…どうしてだろう。

振り返ってみると、私は自分が「普通」ではないことに、保育園時代から気づいていたように思う。
当然母はもっと前から気づいていたようだ。
保育園でも学校でも変わっているとは言われ続けてきた。

だが、思い起こす限り、私は普通でないことを否定されたことはない。普通になれと強制されたこともない。むしろ、面白い子、ユニークな子として理解され、応援してもらったように思う。とても幸運だったはずだ。
大人になってからも、変わっているとか個性的とかは言われても、そのまま受け入れてくれる人達と友人関係などが築けている。

それなのにどうして、こんなにも普通にあこがれるのだろう。

これだけいろいろなことが出来なくても、出来ることを見つけて仕事してる私ってすごいじゃん。
大変でもこれだけ工夫してそれなりに乗り切ってる私って頑張ってるじゃん。
なんだかんだいって日常生活も社会生活もできて周囲に迷惑かけているわけでもなし、これで立派なものじゃないの。
そう思おうとするのに……。

普通が良かった。

大人気なくても自分の時間と自分のお金

会社で飲み仲間が出来た。
というか、残業で遅くなったときの帰りがけに一杯飲んでいきましょうか、ということが何度かあったぐらいだけれど、もともと人付き合いの悪い私は転職後何か月かでそういうふうに呑める人が出来ると思わなかったので、ちょっと嬉しかった。

今夜、そろそろ……というときに目が合ったので、「行きます?」と誘ってみた。
これも人を誘うことが苦手な私からするとかなり珍しい。
「行きましょう!」ということで、3人で飲みにいくことになった。

その後しばらく仕事をして、そろそろ出るかぁ、と思いながら約束した人の様子をうかがうと、私の苦手なXさんと話している。私はこのXさんはそばに寄るのも嫌なので、というか視界に入るのさえむかつくので、しばらく待っていた。
そのうちその約束した人が席を立ってこっちに来たので、行けそうかなと思って「いつでも出られますよ」と声をかけた。
すると「Xさんも行きたいそうなんですけど、いいですか」と言われた。

ま、この状況で普通「だめです」とは言わないよね。
もちろん大人な私も言いません。
私は「え、Xさんが行くなら私が行きません」と言った。

急に用事を思い出してというのもしらじらしいし、今後のこともある。
「Xさん苦手なので、業務の飲み会ならともかく、プライベートで一緒に行く気はまったくありません」ときっぱり断った。
「え、すみません、知らなくて。あゆみさんと先約ですから、それならXさん断りますから」と言われたが、私の気分はもうささくれだっている。
「すみません、なんかそれも悪いですし、もう飲みにいく気分じゃなくなっちゃって。わがままいってすみません」と言ってさっさと帰ってきた。

私的にはこういう場面で「すみません」「わがまま言って」と口に出来るのが自分なりの精一杯の大人ライン。
でも、こういうところがやっぱり非社交的なんだろうな。

だけど、非社交的でもいい。なんで飲みたくもない人と飲むために貴重な自分の時間とお金を費やさないといけないのだ。

帰りは一人で気軽なイタリアンでピザとサラダをつまみ、ビールとワインを呑んだ。
嫌いな人と飲むより、一人の方がよっぽどいい。

ノイズキャンセラーってすごすぎる

私は嗅覚や味覚は鈍い方なのだけれど、聴覚だけは弱いというか過敏というか。
聴力が良いというわけではないのに、ノイズキャンセリング機能がついていないようで、雑音が苦手だ。雑音にさらされていると頭痛がする。雑音といっても工事現場のような騒音を言っているのではなく、話し声とか電話の声とか空調の音とかドアの開閉とかだ。
これって、東京で生きていると結構致命的で、人込みや電車で頭痛がするとは言っていられない。会社で「人の声が苦手で」では会社員としては厳しい。
仕事柄、会社員としては割と静かな環境のことが多かったので、なんとか時に耳栓を使いながらも過ごしてきたのだけれど、最近電話をかけるのが仕事みたいな人が隣の席になってしまった。そして今の会社は急に社員数が増えたのでスペースが足りず、席の間隔が狭い。
その人が悪いわけじゃないのだけれど連日の頭痛に耐えかねて、ノイズキャンセリングイヤホンを買ってみた。

ノイズキャンセリングといっても、私は音楽をクリアに聞きたいという目的ではなく(音楽はむしろ雑音)、無音にして欲しい。
以前ノイズキャンセラーを探したときに、安全上の理由から耳栓やノイズキャンセラーは人の声は通すしくみになっていると聞いたことがあった。いや、人の声を一番遮って欲しいんだよ!

ということでそういう目的で検索して、どうやら音楽を聴かなくても無音にしてくれるらしい、しかも人の声も聞こえなくしてくれるらしいノイズキャンセリングイヤホンを見つけた。本当はイヤホンよりヘッドホンが良かったのだけれど、会社でヘッドホンは目立つだろう。

うーん。しかし、いいお値段がする。3万円超えかぁ。
いや、片頭痛のお薬だって高いしね(3割負担で1錠300円)。これで会社の時間が楽になるなら、安いものだ。
と思ってはみるものの、それで会社の時間が楽になるなら確かに価値はあるけど、もし大して効果がないものだったら3万円はもったいないなー。

そう思っていたのだけれど、連日の頭痛に耐えかねて、ぽちっと買ってみた。

会社で装着してみて驚いた。
すごい。すごすぎる。何も聞こえないよ。
冗談じゃなくて、ほんとに。
ノイズキャンセリングのレベルは調整できるようになっていて、最初マックスにしてみたら本当に何も聞こえなくなってしまったので、会社でそれも不便かと思って4分の3ぐらいのところにしてあるのだけれど、それでも恐ろしいほど無音に近い。
用事があって話しかけに来た人に気づかず、目の前で手を振られてやっと気づいた。

快適~!

そして装着感も良い。私は締め付けられるのも耳の穴がふさがるのも嫌いで、耳栓を使うときでも違和感が常にあった。
でもこれはつけている感じが全然しない。
(唯一欠点を言うならネックバンド式なのでちょっと持ち運びにはかさばることと)

こんなに快適ならもっと早くに買っていれば良かった。
手放せなくなりそうだ。

登校拒否はないけれど

発達障害のある子どもには不登校が多いという。
そりゃそうだよなあ、と自分が子どもの頃を振り返っても思う。

小学生や中学生の子と話していて、「学校楽しい?」と尋ねて「楽しい!」と答える子がいる。「なんの時間が好き?」と尋ねると「休み時間と給食!」とのこと。
お母さんは「全くこの子は……」とため息をついて見せるのだが、私は心底羨ましい。

私は子どもの頃、休み時間と給食の時間が何より苦手だった。
だって、どうしていいか分からないのだから。「お友達と遊ぶ」が分からない。「お友達とご飯を食べておしゃべりをする」が分からない。
授業中の方が座っていればいいので、ずっと楽だった。
そして休み時間や給食の時間は本を読んで過ごしていた。「本が好きな子」というレッテルで過ごしていたが、あれで本が好きでなかったらあの休み時間や給食の時間をどう過ごしていたのだろうと思う。
そして授業は聞いていれば分かったので良かったが、あれで授業にもついていけなかったら、どこにも救いがなかっただろうとも思う。

そんな私は「登校拒否」をしたことがない。
しかし、今は「不登校」と言うんだな。学校に行けるのに行かないことを指すのなら、私にはそういう経験はある。
私の認識としてはそれは「仮病」「さぼり」だ。

時々、突然朝になると「学校に行きたくない」と思うのだ。
別にいじめられたとかそういうことではなかった。ただ、突然、本当にそう思うのだ。
とりあえず母に「寒気がする。頭が痛い」と訴える。
すると母が「熱測ってみなさい」と言って体温計を置いていくので、母の目を盗んでスタンドのライトに体温計の先を当てる。
昔の体温計というのは水銀が目盛りのところまで上がって表示されるようになっていて、熱いものにあてればすぐに温度は上がったのだ。
スタンドの白熱灯なら数秒で十分。目盛りを確認し、額に手を当てても「そんなに熱ないんじゃないの」と言われない程度、つまり36.8度とか37度とか、お医者さんに行くほどではないけれど母なら「今日は学校は休んだら」という程度の温度に設定する。
そして母が「うーん、ちょっと微熱ぐらいねえ。お医者さんいくほどではないと思うけど、学校はやめておきなさい」と言うのを聞いてほっとする。
これは私の基準では、母が休めと言っているのだから、私が登校を拒否しているわけではない、のだ。

うちは母も働いていたので、この程度の熱だと日中は私一人になった。
この「一人」が落ち着いた。私はたぶん、子どもの頃から「一人」や「静寂」を必要としていたのだろう。

これは小学生ぐらいからずっと続いていて、何を隠そう、今でも続いている。今でも時折、別に気が重い仕事があるとか前日失敗したとかではないのに「今日会社行きたくない」と思うことがあり、休める日だと休んでしまう。
今の口実は「片頭痛」だ。
実際に片頭痛持ちではあるのだけれど、片頭痛は便利な口実だ。これが風邪だと「え、昨日全然元気そうだったけど」と思われそうだが、片頭痛は本人以外分からないのだから。

私はこれをずっと自分の怠け癖だと思っていたのだけれど、今は自分に必要な休息で、気持ちが出しているSOSなのだと考えている。別に嫌なこととか心当たりがなくたって、社会で生活しているだけで疲労は蓄積していくので。

だから今は、「まあ仮病使ってもいいか」と考えている。
自分に出来るペースでやっていけたらいいよね。
プロフィール

あゆみ

Author:あゆみ
大人の(成人)発達障害です。「発達障害のわたしのこころの声」(学研)の著者です。
本には書けなかったこと、本を出してからの日々を綴っています。
会社員と一人暮らしが出来ていているのに、発達障害は確かなようです(診断済み)。



発達障害のわたしのこころの声 (ヒューマンケアブックス)

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