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先生に保険証の話を伝えた

通院先のメンタルクリニックで保険証を出すと照会のエラーが出るようで、受付の人に「会社でエラーが出ることを伝えて登録確認してもらってください」と言われたという話を先生に伝えた。

そんなこと会社に言ったら話の流れ的に、メンタルクリニックに通院してることが会社にバレるでしょ!
というリスクを考えて欲しいと思ったのだけど、精神科医に「精神科に通院してるなんてバレるリスク」と言うのもなんだか失礼かな?という気もした。でも、失礼とか言ってる場合じゃないもんね。一般雇用なのに精神障害者だなんていうレッテル貼られた方が大変だよ。いやまあレッテルを貼られるも何も精神障害者なのだが。

だけど、先生にはすぐに私が言いたいことは伝わった。
私が受付の人との会話を説明するや否や、先生は「それは(受付の対応が)良くないね」と。
あまりにすっと話が進んだので、「失礼とか言ってる場合じゃないし!」と力が入っていた私は肩透かしを食った感じで、面食らって「クレームみたいなこと言ってすみません」と謝った。
そうしたら先生は「いや、大事なことだから。受付には話しておく」ときっぱりと言っていた。
私が「保険証、会社に確認しなくて良いですよね?」と念のため尋ねると、先生からは「もちろんそんなことしなくていい」との答え。

よし。先生からそう言われれば。次回も堂々と通院できる。保険証が通らなくても、もう肩身の狭い思いをしなくて良い。
そう一安心して、それから意外とこの受付の人とのやりとりがストレスになっていたんだなということに気が付いた。
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次のご褒美はどうしようか

金曜日が終わった……。

GWに少しリフレッシュできてちょっとだけ調子が良くなっていた気がしたのだけれど、もう充電したエネルギーは使い果たしてしまったようだ。今週は仕事がのらなくて、今日も結局やり残した仕事山積みのまま、必要なメールの返信すらほったらかして強制終了。
こういうことをすると月曜日に一層気が重いことは分かっているのだけれど。

で、GWのリフレッシュしたエネルギーを使い果たしてしまったので、次の充電は。
7月と8月は祝日があるので3連休となる。あとは今月代休を1日取ることにしているのでそれも週末とつなげて3連休にする。
それから、6月といえばボーナス月!
私の勤務先は外資ということもあってボーナスはもともと年棒の一部だから、お給料にプラスして払われるというわけではないのだけれど、でもやっぱりボーナスは嬉しい。
今回のボーナス分はすでにエアコン代とPC代に充ててしまっているから本当はもう余力はないのだけれど、でも何かちょっとぐらい、何か小さな金額で、でも普段買わないようなものを自分へのご褒美に買おう。何にしようかな。

妄想の診察風景

すみません。きっと今日の記事も何書いているか分からないかもです。
しかも脳内妄想の話なんで、不適切な表現があったらそれもすみません。

前記事でどうしてメンクリの先生は私をすごくサポートしてくれるのだろうという話を書いたけど、以前私はこの先生に定型発達になりたい、発達障害を治したいと無理な話をしたときに、「むしろ発達障害のあるお子さんをあなたぐらいまでもっていくのが目標」と言われたことがある。カウンセリングの公認心理士にも言われたことがあるけれど、私は私ほど(結構重いらしい)の発達障害があるにしては、なんとか会社員が務まって一人暮らしが出来ていてというのは良く社会に適応できている部類らしい。

で、私が時々思い浮かべる空想(というか妄想)。
お友達を作るのが下手で親との仲も良くなくてなんだか周りとズレていて言ったことが通じなくてすぐ癇癪を起こしてという感じで持て余して困った子を診察に連れてきたお母さんが、発達障害と診断されて「障害なんですね、治らないんですね、この子は将来どうなってしまうのか……」と泣き崩れる。
あるいは、会社に就職してみたけれど他の人に出来ることが自分に出来ず居心地が悪くて転職を繰り返して職歴も荒れてどうして良いのか分からずに診察を受けに来た20代ぐらいの人が発達障害と診断されて、「人生詰んだってことですね、できる仕事なんてないですよね」と投げやりになる。
そんなときに先生は、「そんなことないですよ。私の患者さんでも結構重い発達障害抱えて仕事している人いますよ」と答える。
「特例子会社で書類のシュレッダーですか」「最低賃金ですか」と言われて、先生は「いやいや、外資系企業で部長さんしてて、バリバリ働いていますよ」と言う。
「ほんとですか……そんな人いるんですか」
「はい。本人は苦労してます、大変ですって言っているけど、活躍してるみたいですよ」
「生活は自立しているのですか」
「長年一人暮らししてます。片づけるのが下手だそうですしお料理はしないと言ってますが、それでもなんとかなるものですよ」
「お友達はいるんですか」
「うーん、お友達の話はあまり聞かないですけど。でも全くいないわけでもないみたいですし、カメラや旅行が好きだそうでよく一人で撮影旅行行って楽しんでるみたいです」
「……一人で楽しんでる? お友達がいなくても、いいんですね」
「もちろんです。他の人たちと同じじゃなくてもいいじゃないですか。自分なりの生活と自分なりの楽しみを見つけていきましょう」
「……分かりました。本当に望んでいるのはそういうことではない気はしますけれども、でも現実的な目標としてそのあたりを目指してみようかと思います」

なんてね。

こんな光景を私は時々頭の中に思い浮かべる。そして、こういう人たちに「そういえば先生、前に話してらしたあの人、その後どんな感じですか?」と訊かれたとき、「ああ、あの人ね……。実は、自〇しちゃったんですよ」とは先生も言いたくないだろう。ま、そこまででなくても「結局失業して、今は生活保護受けながらグループホームで暮らしてますよ」ということであっても、「結局そうなのか……」という、なんというのかいわゆる「発達障害者の末路」みたいな感じを受ける。
だから、そんなことにならないように。「ああ、あの人ね。結構偉くなって大活躍して十分蓄えもできて定年退職して、今はのんびり好きなことして一人暮らし楽しんでますよ」っていうステージまでたどり着けるように、先生は私をサポートしてくれているのかもしれない、と思うのだ。

どうしても頑張れない人たち

「ケーキの切れない非行少年たち」の続編で「どうしても頑張れない人たち」という本がある。
この本自体は、頑張ろうにもそもそも成功体験がなかったり知的なレベルが追い付いていなかったりして頑張る以前の問題の人たちがいて、それなのに「頑張る人をサポートする」というのはそういうそもそも頑張れない人たちを切り捨てていることで、でも頑張れない人の方が本当はもっとサポートを必要としているのではないか、というような内容だ。

なので、私が考えたことはこの本の本旨とはズレているのだけれど。

私は、通院先のメンタルクリニックの先生にはとても良くしてもらっている。
とてもプロフェッショナルな先生だから、もちろんどの患者さんにも適切な対応をしているのだろう。でもやっぱり、私は先生にはとても親切にしてもらっていると感じている。こういう言い方が適切かどうか分からないけど、特別扱いといっていいレベルで親切にしてもらっていると思う。

時々、「先生はどうしてこんなに良くしてくれるんだろう」と不思議に思うことがある。
そしてなんとなく、「私が頑張っているから応援してくれているのかな」と感じる部分がある。頑張り続けられるように力を貸してくれているのかな、と。
その思いは、「先生に悪いから頑張るかな」とポジティブな方向に働くこともあるけれど、「私が頑張らなくなったら先生はこんなに親切にはしてくれなくなるのかな」と、一種の見捨てられ不安というのか予期不安というのか、そんな思考回路になることがある。
(ちなみに私の「頑張る」は、嫌々でも会社員を続け、ゴミ屋敷寸前でも一応破綻せずに自立した生活をしている、という状態のこと)
だけど、頑張れなくなったら、そんな状態のときの方がもっと先生のサポートを必要とすると思うんだよね……。
そして先生に助けてもらうには頑張り続けないといけないのかなと思うと、それはそれでプレッシャーというのか、ちょっと怖い。

まあ、先生に「なんで先生こんなに親切にして下さるんですか」なんて尋ねたことはないけどね。

なお、私が自分では「もうこれ以上会社員として働き続けるのは無理」と思い続けながらもなんとかここまでやってきている理由は二つあると自分では思っていて、一つはもちろんこの先生のサポートなのだけど、もう一つは実はコロナ。コロナでテレワークが浸透して、仕事で人と会う機会が減ったことは私のストレスと体力的な負担をずいぶんと減らしてくれた。

なんか、記事のタイトルは本の紹介みたいなタイトルなのに、全然違ったとっちらかった記事になっちゃった。
何が言いたいのか分からなくなってきたけど、つまり頑張っている人を応援したくなるのは人情だけど、頑張ってないときの方が応援を必要としているかもしれないのに応援が得にくいのかもね、という話。

夜中に背中が痛くて目が覚めた

昨日の夜中に背中が痛くて目が覚めた。
ぎっくり腰や筋肉痛みたいな痛さと違って、なんだかもしかして体の内側からの痛さなのかもいう気がした。
よく知らないけど、心筋梗塞とか……?

痛くて気持ち悪くなってきたけど動けないというほどのことでもなかったので、とりあえず痛いのだしと思って痛み止めのロキソニンテープを貼ってみた。
まあ、救急車を呼ぶほどではない。でも呼ぶなら、一人暮らしだからドアの鍵は自分で開けないといけないわけで、動けるうちでないと。

そんなことを思いながら、「でももしこのまま〇んじゃうんだったら」と考えた。
そうしたら、「最近よく遊んだから、まあ良かったかな。旅行も何度も行ったし、カメラでも遊んで」と思ったのだ。

本気で〇んじゃうかもと思うほどだったわけではない。本当にそう思うほどだったら救急車呼んだだろう。
だけど、「〇んじゃうかも」という言葉が頭をよぎったときに「よく遊んだからまあ良かったかな」という思いが真っ先に浮かんだのは、我ながら上出来だったと後になって思った。
発達障害なんかに生まれて人生最初から外れくじで今までの人生も後悔でいっぱいで嫌々仕事していて終活もきちんとしてないのに、「まあ良かったかな」と思えるなんて。

いつか本当に〇ぬとき、「十分遊んだし、まあ良かったかな」って思えるといい。
「家族に責任を果たした」「夢を叶えた」「仕事をやりぬいた」「世の中を変えた」のような、そういう満足感で人生を終えることはないだろうけれど、「十分遊んだ」と満足する可能性だったら、まだある。

ちなみにそんなこと考えながらまた寝てしまって朝起きたらなんともなかったので、実際には多分寝違えたとかその程度のことだったと思う。
プロフィール

あゆみ

Author:あゆみ
大人の(成人)発達障害です。「発達障害のわたしのこころの声」(学研)の著者です。
本には書けなかったこと、本を出してからの日々を綴っています。
会社員と一人暮らしが出来ていているのに、発達障害は確かなようです(診断済み)。



発達障害のわたしのこころの声 (ヒューマンケアブックス)

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