お医者さんには分からないこと

服薬をやめたところ離脱症状がきつかったので、抵抗はあるもののしょうがなくまた服薬を再開している。
メンタルクリニックを受診したときにその話をした。

「こんなに薬に振り回されるなんて、飲みたくないと思っても飲まざるを得ないなんて、屈辱的です」
と言う私に、先生はあっさりと
「まあ屈辱的かどうかは別として、お薬飲んでいる人の大半は好きで飲んでるわけじゃないですよ。みんな我慢して飲んでるんですよ」と、当然のことのように言う。

分からないんだなあ、このお医者さん。
私が向精神薬への抵抗感を口にすることはこれが初めてではないのだけれど、いつも通じない。
それはそうだろうと思う。多剤処方の問題が叫ばれる中、私が飲んでいる薬は種類も量も少量だ(私は薬が異常なほど効くタイプ)
お医者さんからすればこんなの飲んでるうちにも入らないだろうし、副作用というほどの副作用もない。オーバーだなーと思っているかもしれない。

でも、嫌なものは嫌なんだよ。
どうして分かってもらえないのか。
本当の意味では理解できなかったとしても、どうしてもう少し配慮してもらえないのか。
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苦手なことを克服する方法

忙しいので部下を採用することにして、先月から採用活動をしていた。今の会社は知名度もないし安定もしていないし、そうそう優秀な人材が押し寄せてくるような会社ではない。その中でおそらく数十件の履歴書を見て、15人ぐらいは面接をして、その中から選んだ人を上司に紹介した。

上司、絶賛。
「あゆみ~ 見る目あるわ! いい人ね!」
普段辛口の上司なのだけれど、ずいぶん気に入ったようだった。

その他、面接した人達も「いい人選んだね」「見る目ありますね」と言ってくれた。

実は私は人を見る目はない。面接は騙される方だ。
そりゃそうだ、人の言葉の裏は読めないし、顔色や表情は分からない。言ったことを額面通り取るとすれば、そりゃ面接来る人なんて表面的にはいいことしか言わないもんね。

そんな私が面接の達人……とまでは言わないにしろ、採用で外さないのにはコツがある。
それは「人を見る目がある人に一緒に面接に出てもらう」だ。

今回も、「あ、この人、人を見る目がありそうだな」と思った人に一緒に面接に出てもらっていた。
面接後の印象は私は今一つに思ったのだけれど、その人が推すので、まあこの人がそういうならとキープしておいたのだ。それでその後他に候補がいなくて人事に回したらそこでも高評価だったので、それならと思ったというわけだ。

自分に見る目がなかったら、見る目がある人の言うことを信じる。見る目がある人に頼めるだけの関係を作っておく。
これでいいんじゃないか。

私はペーパードライバーだけれど、一度だけ中古車を買ったことがある。この時は車に詳しくて中古車の売買も何度もしているという人に一緒に来てもらった。私はまったく分からなかったけれど、その人が「これはいい車。お買い得」と言うので、その人がそう言うならと信じて買った。
非常に良い車だった。

一度、ちょっと記念にいい腕時計を買おうと思ったことがあるが、私はそういうセンスがないので、センスのいい母に一緒に買い物につきあってもらった。その時買った腕時計は今でも人に「それ、いいね」と褒められる。

なんかもう、それでいいと思う。
今から私が人を見る目や車を査定する能力やセンスの良さを磨こうとしても無理だ。そんなことを自分でやろうとして失敗するより、他人頼みで切り抜けられるならそれに越したことはない。

その代わり、私はそういうことが出来る人達を信用して、その判断を尊重する。そして決定の責任は自分で取る。

依存が嫌なわけ

私は人に依存するのが嫌いで、子どもの頃親に生活を依存していたのはともかくとして、大人になってから依存したことはないと思う。親にも、結婚していた当時も、友人たちにも。
それがこの数年、お医者さんと臨床心理士には依存している気がする。というか、している。
何かあったときに頼る先がある…というのは、救いになるはずだ。実際、お医者さんに「本当にダメなときは電話してきてください」と言ってもらって、最後のセーフティネットみたいにその言葉を握りしめてウツ状態を我慢していることなんかもある。
本当に苦しかったときに本来の取り決め外の無理やりカウンセリングを申し込んで臨床心理士に助けてもらったこともある。

でも、それなのに、すごく嫌だ。
お医者さんや臨床心理士が嫌なわけではなく、依存が嫌だ。

なんで?と思って考えてみた。

もしかして、私にも見捨てられ不安があるのだろうか?
依存してしまってから見捨てられたら、堪えるだろう。それが怖いような気がする。
臨床心理士の勤務先が一度組織変更というか、ちょっと状況が変わるという話を聞いたとき、「もうこの臨床心理士にカウンセリングしてもらえなくなったらどうしよう」と思うと不安になり、ちょうどしんどい時期だったこともあいまって、本当に調子を崩した。
お医者さんにも時々、「先生、このクリニックやめませんよね?」と尋ねたくなることがある。(ちなみに尋ねない理由は、もしやめると言われた場合のショックが怖いからだ。)

お医者さんは私より年上なので、お医者さんに定年はないとはいえ、普通に考えれば先生が引退するほうが私が精神科医を必要としなくなるより先だろう。単純に寿命で考えても。
臨床心理士は同年代だけれど、臨床心理士というのはなんとなくお医者さんよりもふいっとやめてしまいそうな不安がある。

そしてお医者さんや臨床心理士というのはあくまで職業上の関係だから・・・
友達と違って、一時的に縁遠くなってもまた復活するとかはなさそうだ。職業的に引退したらもうそれっきりだろう。

こんなことを考えると、不安で心配で怖くてたまらなくなる。
まったくもう、受診やカウンセリングで安心させてもらっているんだかかえってそのたびに不安になるんだか、プラマイで考えたらどっちが多いかわかりゃしない。

だから依存は嫌なんだ。

残りの人生でやりたいこと

発達障害を抱えながら、転職を繰り返したりパワハラで適応障害起こしたりしてはいるけれど、それでも会社員を務めてこられたことはありがたいことだと思っている。

でも、会社員が自分の天職だとは思えない。転職という言葉がオーバーなら、やりたいことだと思えないと言えばいいのか。自分がやっていることに価値が見出しにくいというのか。
得意分野で働けていることはありがたい。評価されれば嬉しい。強い分野には自信が持てる。
これ以上、望むのは贅沢か?

だけど、人生の中で長い時間を費やす仕事。どうせなら、自分がやりたいことをやりたい。どうせ責任を負う人もいないのだから、自分の食い扶持さえ稼げればいいのだし。

今までも時折そんなことを思いながら、でもその「自分がやりたいこと」が見つからなかった。
(宝くじ当ててごろ寝三昧とかの現実味のない空想は別)

いろいろ考えた中で、私は自分の発達障害を意味のあるものにしたいと思う。自分がこんなで、こんなコンプレックスをかかえて、こんな苦労をしてきて、こんな悩みを持ってきたことを、何かに生かせたら、自分の人生に意味を見出せる気がする。

発達障害ビジネス…(儲けまではともかくとして、ボランティアでは続けられないので「ビジネス」にはしたい)
自分の経験を生かすとなると、医療とか療育の分野は無理だろう。対象も重度とか知的障害を伴うでは自分の経験は生かせないだろう。
そう考えると、知的な遅れを伴わない子どもの学習支援か、大人の発達障害の就労支援か。
そんなあたりなら現実味があるだろうか。

発達障害の子の学習塾。
発達障害専門の人材紹介(転職)エージェント。
こういうものならなんとなくイメージが湧く。
あるいはその中間ぐらいで高校生前後の子の職場見学体験とか、大学生や専門学校生のインターンシップ紹介とか。

今すぐどうこうというのは無理だろうけれど、こういうことを考えるのは楽しい。
そして、考えて楽しいことを仕事に出来たら、それはいざとなれば楽しいだけではすまないにしても、やりがいを感じられるのではないかと思う。

筋力も凸凹

ジムに行ったときのことだ。
トレーナーが、私の体力と筋力を見るということで、いくつか運動やストレッチをした。

トレーナーのコメントは、「うーん、あゆみさんは(トレーナーの)動作を真似することは大体できるんですね。ただ、本来そのために使う筋肉が正しく使えていません。あゆみさんは強い筋力と弱い筋力の差が極端で、強い筋力で無理やり弱い部分までカバーしてるんです。だから強い部分は過負荷がかかってパンパンだし、弱い部分は怠けて全く働いていません」

うう。
これ、筋力の話ですよね…。
私の「能力」に置き換えても、見事にぴったり当てはまると思った。
プロフィール

あゆみ

Author:あゆみ
大人の(成人)発達障害です。「発達障害のわたしのこころの声」(学研)の著者です。
本には書けなかったこと、本を出してからの日々を綴っています。
会社員と一人暮らしが出来ていているのに、発達障害は確かなようです(診断済み)。



発達障害のわたしのこころの声 (ヒューマンケアブックス)

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